Go For It ! 牧田和久投手インタビュー

アメリカに行って思い出したのは純粋に野球を楽しむことの大切さ。

東北楽天ゴールデンイーグルス 背番号22

牧田 和久 投手

1984年焼津市生まれ。焼津市立小川中学校から静清高校、平成国際大学、日本通運を経て2010年ドラフト2位で埼玉西武ライオンズに入団。2013年、2017年のWBCで侍ジャパン日本代表に選出。2018年よりサンディエゴ・パドレスでプレー。2020年、東北楽天ゴールデンイーグルス入団で日本球界に復帰。球界を代表するアンダースロー投手である。

小学生のころ、友達と公園に遊びに行った時に同世代の子たちが野球をやっているのを見て、僕も次の日にその少年団のチームに入りました。僕は基本的にずっとピッチャーでしたが、時にはセカンドやショートも経験。打つのは正直、苦手でした(笑)。
中学では軟式野球部に入りましたが、そこまで野球が強い学校ではなかったので、プレッシャーもなく和気あいあいとみんなで野球を楽しんでいましたね。当時、同じ焼津市出身の増井(浩俊・現オリックス・バファローズ)と対戦しましたが、球がすごく速かったのを覚えています。川端(崇義・元オリックス・バファローズで2017年に引退)もよく打つ選手で、地元にも同世代ですごい選手がいるんだなぁと思っていました。
夏の中体連が終わった後、硬式野球に慣れるために、毎週日曜にいろんな高校のグラウンドで行われていた野球教室に参加しました。有難いことに何校か声を掛けていただいたのですが、静清高校のグラウンドで練習した時に監督が熱心に誘ってくださったことがきっかけで、進学を決めました。
プロ野球選手を輩出している高校だけあって、練習はきつかったですね。放課後4時くらいから練習して、家に着くのは夜中の1時過ぎ。そして朝練……何度もやめたいと思いました。でも、母に「最後までやり通しなさい!」と発破をかけられて、卒業まではやりきろうと。ただ、つらい反面、勝った時に喜びを仲間と分かち合えたことはすごく嬉しかったです。
ちなみに、僕がアンダースローに転向したのは高校1年の時。部長さんのアドバイスでした。結果的にこれを武器に生き残れたわけですが、当時は一日一日を乗り越えるのが精一杯で、プロなんてとても考えられなかったです。とにかく3年の夏まで頑張るという思いだけでした。
卒業後は平成国際大学に進学しました。大学では、監督が「100人いたら100通りの練習がある。自分で考えなさい」と自主性を尊重する方針だったので、全体練習は短めで、あとは個人練習。いくらでも楽ができてしまう環境です。高校とは真逆だったので戸惑いもありましたけど、結果的に「どんな練習をしたらもっとうまくなれるか」をじっくり考える習慣を身につけることができました。
社会人野球に進んで2年目、試合中に右足の前十字靭帯損傷という大怪我を経験し、3年目もプレーできず、当時は手が届きかけていたプロの世界も「もう可能性はないだろう」とほぼ諦めていました。でも、「牧田を獲得してよかった」と思ってもらえるように、会社のために、チームのためにと奮起したところ、4年目に主戦で投げられるようになり、気がつけば僕が投げる試合はすべて勝っていた。これでプロへの道が開けました。
実際にプロに入って感じたのは、高校↓大学↓社会人↓プロと、球速、スイングスピード、脚の速さなど「スピード」がレベルアップするということ。ただ、僕はもう球速は上げられないので、あまりそこにとらわれず、タイミングを外す、テンポよく投げるといった自分の個性を貫くことに徹しました。まわりに流されずどっしり構えることを大事にしていたんです。これはメジャーリーグに挑戦した時も同じ。環境も言葉も違う中で不安もありましたが、なるべく気にせず、いい意味でマイペースを心掛けました。
アメリカに行って学んだのは、野球の楽しさです。高校できつい練習をやって、大学では自分で考えること、社会人やプロでは結果を出すことを求められてきた僕は、「純粋に野球を楽しむこと」を忘れかけていました。アメリカでも結果は大事だけど、プロでもみんな楽しそうに野球をやっている。楽しさあってのスポーツだなと改めて感じたんです。
だからこそ、今スポーツを頑張っている皆さんにも、とにかく楽しんで取り組んでほしいと思います。勝った時はみんなで喜んで、負けた時でも次、次と前向きに気持ちを切り替える。いつも楽しむことを忘れずに、日々の練習に励んでいってください。

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